日記

僕の愛する両親は世界一素晴らしい。21年間の親不孝を経て気づいた、幸せになる方法。

僕は気づいた。

僕の両親は素晴らしい人たちだと。

そして、僕は誰よりも幸せ者だと――

通行人に八つ当たりしたり、自傷行為に走った

僕は昔から感情をコントロールできなくて、そんな自分が憎くて仕方なかった。

耐えきれず物に当たると、内なる獣がたちまち暴れ出す。

大して苛立っていないときでも、なんとなく荷物を雑に放り投げたり、物を乱暴に扱うと、それが引き金となって深い憂鬱の谷間へ真っ逆さまに落ちていく。

自己嫌悪と希死念慮の両輪に巻き込まれ、心は再生不能なほどぐちゃぐちゃになる。

 

以前、回転寿司に行った際、お湯をコップに注ぐときによそ見をしていたら満杯になったことに気付かず、熱湯が溢れ出して手にかかってしまった。

店員さんがすぐに氷を持ってきてくれたから事なきを得たが、僕はそれから放心状態になり、無表情でうつむくか明後日の方を向いていた。

親に

「何か食べる?」

と何度も聞かれたが、

「いらない」

と断り、不愛想に固まっていた。

普通の人なら「ドジふんじゃった~」と笑ってやり過ごすだろうが、僕は被害者根性たくましく「なんで僕ばっかりこんな不幸な目に遭うんだよ!」と思い、それを態度に出してしまった。

内心、自暴自棄になって心配されたかったところがあったのかもしれない。

僕のせいでなんだか微妙な空気になり、母に

「帰る?」

と提案され、それに乗った。

帰り際、通路で人とすれ違う時に、避けないでわざわざぶつかったり、出口のドアを蹴り飛ばして開けた。

「なんなんだよマジで! なんで悪いことばっか起きるんだよ! ほんと最悪な人生だ!」

そう叫びながらこうべを垂れて歩道を歩いた。

一人でキレ散らかしながら歩いている人がいれば当然目立つが、道行く人の視線などまるで気にならなかった。

家に着いた後も絶叫して、のどが痛くなった。

ムカついて自分の部屋の物を投げ飛ばした。

そんなことをしても気が晴れるわけもなく、何ならさらに怒りが湧いてきた。

破壊衝動の矛先は、物から自分自身へと向かい、僕はドアに頭を打ち付けた。

木製で中身がスカスカのドアだったからダメージは少なかったが、「頭蓋骨が傷ついたらどうしよう……おでこの皮膚も荒れるかもしれない……どうしよう……やばいやばいやばい……」と怖くなり、うずくまってビクビクと体を震わせた。

やり場のない怒りを自傷行為で発散する人の気持ちが痛いほどわかった。

包丁を盗んだと思われた

今まで僕は、外の世界に出れない自分に苛ついて、それを表情や動きなどの態度で露わにしていた。

食事の時、暗いオーラを漂わせ、話しかけられても

「まあ……」

「はい……」

と、話しかけられることにうんざりしたように目をそらして返事した。

その影響で家庭内がどんよりと暗い雰囲気になり、いたたまれない状態であった。

すぐに感情を表に出して周りの人を困らせてしまう自分に嫌気が差し、さらに深く病み堕ちしていく。

僕の様子を見た父は、

「今日は調子が良くないのか?」

と声をかけてくれたり、コンビニのスイーツを買ってきてくれたりした。

仕事終わりで疲れ切っている父に気を使わせてしまったのだ。

そんな父に対し、

「いちいち聞いてくんなよ! ほっとけよ!」って思ってた。

本当は僕の方が父を労うべきなのに、あろうことか理不尽な怒りを覚えた。

僕は紛れもなく“毒息子”だった。

台所で包丁が見つからないとき、親に「あいつが持って行ったんじゃないの……」と疑われるほどに。

日頃、周りの人の精神を凶器で切りつけるような態度を示す僕のせいで、家庭内には着実に狂気が生まれ始めていた。

 

こういうことが何度も起こるから、

「感情を表に出して周りに迷惑をかけて、そのたびに自己嫌悪に陥っちゃう……。この家にいることで不健全な精神の揺らぎが起きている! 一刻も早くこの家を出て、親と縁を切らなければ!」

と思っていた。

「一人暮らしさえできれば、僕の人生の問題はすべて解決する!」と。

しかし、自分の気持ち一つコントロールできない奴がどこへ行こうと、上手くやっていけるわけがない。

今は実家暮らしで親の目があるからまだ抑えられている方だ。

一人暮らしを始めれば、安易に物に当たってしまうだろうから、むしろ今以上に情緒不安定な暮らしになること必至である。

結局、どこかのタイミングで逃げずに、自分の汚くて見るに堪えないところと向き合わなければならない。

自分自身と和解しない限りは、永遠に苦しみ続けることになるのだ。

落ち込んでいるときも明るく振舞うと、本当に気分がよくなる

いくら自分がつらくても、それを表に出せば周りの人は嫌な気持ちになる。

自分が苦しんでいることが、他人に八つ当たりしたり、傷つけていい理由にはならない。

一人不機嫌な奴がいるだけで、それが周りに伝染して場がピリピリして、家族もろとも病みの世界に道連れだ。

 

だから僕は、猛烈に死にたくなっても、それを悟られぬよう内に秘め、外面は気分良さげに過ごしてみた。

本当は気分がすぐれずイライラしていたが、試しににっこり笑顔を作って受け答えもちゃんとした。

すると不思議なことに、苛立つ気持ちが徐々に静まっていった。

木々をなぎ倒し、家々を粉砕し、人々を恐怖に陥れるほどの嵐も、じっと待てばいつしか過ぎ去り、やがて燦燦と輝く太陽が僕らを照らし出す。

投げ出したくなるのをぐっとこらえて、笑顔で過ごすことの大切さ――

そしてここ二週間ほどで、急速に家の雰囲気が明るくなった。

食卓は和やかな笑顔に包まれ、毎日は穏やかに過ぎていった。

僕の心の荒ぶりは完全に治まったと言っていい。

マイナス感情の表出を抑えることができるようになると、「僕は今まで何してたんだろう……」という気持ちになる。

「周りにかまって欲しいだけじゃん」と、少し前の自分がいかに愚かだったかを思い知る。

良かったことも悪かったことも大切な思い出

人間、病んでいるときは悪いことばかり思い浮かべてしまう。

僕自身、希死念慮に襲われているときは、

「人生で何も良いことなかった!」

「21年間、楽しいと思った瞬間なんて一度たりともない!」

「こんな人生いらねえよ!」

って叫んでた。

今が上手くいっていないからって、過去の思い出を都合よく書き換えて、悲劇のヒロインを気取っていた。

とてもずるくて卑怯な言い訳。

確かにつらいこと、嫌なこと、黒歴史、たくさんあった。

でも、楽しかったことだって数え切れないくらいあった。

初めて友達ができた日、欲しかったゲームを買ってもらった日、部活の市大会でメダルを獲得した日――。

「死にたい」なんて一ミリも思わなかった。

毎日猿のように欲望に忠実で、明日のことなんて考えず、その日その日を楽しんで生きてた。

その時はその時で悩んでいたこともたくさんあったけれど、少なくともそこには、陰キャなりの青春があった。

うだるような暑さの中、先輩のしごきで校舎周りを走らされ、仲間と怖い話なんかしながら耐え忍んだ。

男友達だけでプリクラを撮ったり、ディズニーシーに行ったり、クリスマスパーティーを開催したり。

ホームステイの時、同じ日本人学生にイケメンと言われたり、ブロンドのお姉さん二人組に手を振ってもらえた――僕のペアの日本人に対しては無反応。

英語はさして上達しなかったが、初対面の人たちと仲良くなってアメリカ観光を楽しみつくし、帰国後も連絡を取り合った。

孤独を感じてた高校時代も、なんだかんだで気の合うやつがいた。

文化祭でお化け屋敷に行って、チープな演出に馬鹿みたいに叫んだり、クラスの出し物の受付をしてるときに、お金を床に落として収支が合わなくなったり。

授業の合間や昼休みにくだらないゲームの話をしたり、寒いのに「暑いな―」とか言って笑い合ってた。

学校外では遊ばなかったけど、特技も居場所もない者同士で通じ合う部分があり、一緒にいて不思議と心地良さを感じていた。

今だって、ママの美味しい手料理をお腹がちぎれんばかりにたらふく食い、笑顔を浮かべながら食卓を囲んでいる。

そういうことを全部なかったことにして、さも不幸の星に生まれてきたようなこと言うなよって、少し前の僕に言いたい。

 

悪かったことだって忘れようとしなくていい。

修学旅行の集会の時、おならしてしまい、クラス全員から白い目で見られたこと。

ラインで大して喋ったこともない女子の先輩に告白したこと。

「ごめん。みぃ君をそういう目で見れない」

とあっさりフラれ、

「冗談ですよ(笑)」

と誤魔化した――今の僕だったら間違いなく、翌日から学校に行けなくなり不登校になっていただろう。

クラスの演劇で、自ら主役級の役に立候補したくせに、恥ずかしがってうすら寒い演技しかできなかったこと。

途中で役を降りようとしたり、セリフを覚えられなかったり、当日もグダグダの演技で、見事発表をぶち壊してしまったこと――クラスの女子には嫌われたが、反対に男子とは仲良くなり、クラス替えまでめちゃくちゃ楽しく過ごせたが。

先輩に鉄の棒を投げつけられ、頭に直撃して倒れたこと。

後輩に挑発され、懲らしめようとしたら逃げられ、両親とともに謝るはめになったこと。

卒業遠足で骨折して、卒業式は車いすで参加したこと。

その影響で、高校入学後数か月は松葉杖生活を強いられたこと。

 

これまで降りかかってきた嫌な出来事、そのすべてが今の僕を形作っている。

どれか一つの失敗を避けられたら、もしかしたら今よりずっといい人生を歩めていたかもしれない。

でも逆に、数秒のずれでタイミング悪く事故に遭い、死んでいた可能性もある。

たった数秒、数時間、数日の積み重ねが「今、生きている」ということなのだ。

黒歴史だって立派な思い出だ。

いつか笑い話にできる日が来る。

綺麗な人生なんてつまらない。

汗かいて、恥かいて、涙流して、血を流し、血みどろで泥だらけになってこそ、美しき朝ぼらけがやってくる。

薄汚い石だからこそ、磨いたときに人一倍輝いて見える。

光放つ瞬間が必ずやってくる。

人生で起こる全ての出来事は、かけがえのない思い出となるのだ。

「反出生主義」で責任転嫁した

「僕は産んでくれなんて頼んでない! 親のエゴで生み落とされただけだ! 勝手に生んでおいて被害者面してんじゃねーぞ!」

と親が悪いことにして、自分は何も悪くないと思い込んでいた。

生まれなければこんな苦しい目に合わなかったのにって。

「この世に生まれなければ、いじめも、凄惨な犯罪も、戦争も起こらない。苦痛を感じなくて済む」という反出生主義的な思考。

世の中には子供に暴力を振るったり、日頃のストレスをぶつけたり、精神的に追い詰める“毒親”がいる。

しかし、僕の両親は決してそんなことはしなかった。

むしろ、僕が親に対して日常的に行っていたといえる。

“毒子”の僕は、何かに失敗したり嫌なことがあると、親のせいにしたり、他人のせいにした。

自分の人生に全く責任を持っていなかった。

「別に人生どうでもいいんだよ。こんな醜い容姿で、卑屈な性格で、友達も恋人も楽しかった思い出もない人間がまともに生きていけるわけないだろうが!」

「生まれたくて生まれたわけじゃないんだから、命を粗末にしても問題ないよね?」という舐め切った態度。

でも本当は諦めきれていなかったから、こうして未だ死ねずにいる。

僕はあのまま、責任転嫁と自己弁護を繰り返し、死ぬまで他人への文句や不満を漏らしていたかもしれない。

ずっと満たされないまま、「愛が足りない」だの「僕は何も悪くない」と言い続ける人間と、一緒にいたいと思う人がいるだろうか。

こんな考え方をしている限り、自分も周りの人も幸せにはなれない。

 

両親は僕に様々な習い事をさせてくれた。

色々試して子供の特技や好きなことを発見するという優れた教育法だ。

自分からやりたいといって始めたものもある。

しかし僕はそれを【自分の意志で】無駄にしてきた。

普通の子供だったらちゃんとやってそれなりに上達しただろうし、特技になったかもしれない。

でも僕は嫌なことがあるとすぐ拗ねて逃げた。

更衣室に立て籠もったり、体育館の隅で地蔵のように固まってただ時間が過ぎるのを待った。

あの手この手で与えられたチャンスをことごとく拒み続けた。

だから、色々させてもらったのに何一つ身に付かなかった。

それどころか僕は、「やりたくもないのに無理やりやらされた! 親の自己満足に付き合わされた!」と言ったり、あろうことか「毒親に精神的な虐待を受けた!」とまでほざき、恩を仇で返すように逆恨みしていた。

なぜこんなこと呆れ果てた思考回路になるのか。

それは、嫌なことから逃げて、親に責任転嫁した方が楽だから。

立ちはだかる壁に怯まず体当たりして、跳ね返されて、痛みをこらえてまた立ち向かうことで、人は一回りも二回りも大きくなっていく。

そしていつか壁に穴をあけたり、はたまた跳び越えていくかもしれない。

けれども僕は、一度返り討ちに遭ったくらいでわんわん泣き喚き、二度と挑戦することはなかった。

部屋の片隅で

「過去のトラウマのせいで身動きが取れない! 僕を追い込んだこの日本社会がおかしい! そもそも親が産まなきゃ……」

と過去の出来事や社会や親に責任転嫁した。

実際には“トラウマ”なんてものはこの世に存在しない。

つまり僕は「恥をかきたくない……。傷つきたくない……。このままずっと家に引きこもって楽したい……」という“本当の目的”を達成するための口実として“トラウマ”を持ち出していたのだ。

 

そんな可愛げのない家庭のお荷物を、僕の両親は見捨てずに家においてくれた。

そればかりか、ご飯をかかさず出してくれたり洗濯してくれたり、僕の精神状態まで配慮してくれる。

何も言わず家を出てネカフェに行ったとき、父はラインで

「夜ご飯できてるよ~、こんがり焼けたチキン美味しそう!」

と送ってきてくれた――僕は未読無視した。

こんなにも人格的に優れている親は、世界中どこを見まわしてもそういないだろう。

それなのに僕は、

「僕が苦しんでいるのは親が産んだからだ! この毒親め!」

と、親の手作りの料理を口いっぱいに頬張りながら言うのだ。

親を恨んでおきながらも、親の情けに甘え、誰よりも親離れできていなかったのだ。

親がどれだけ僕のことを慮って、頭を抱え、苦しんできたか。

僕が苦労をかけたせいで老化が進み、両親の寿命は一体どれだけ縮まってしまったのだろう。

そんなこと微塵も顧みず、僕は無神経にもふてぶてしく横柄な態度を取っていた。

まるで被害者かのように。

紛れもなく加害者のくせに。

子育ては本当に大変

一人の子供を産み育てるのは、とてつもなく大変なことだ。

母は、本当はおしゃれして、おめかしして、素敵なところに行ったりしたかったと思う。

やりたいことなんて山ほどあるはずなのに、子供のために我慢して頑張ってる。

寝る間も惜しんで毎日毎日働いて、早起きしてお弁当を作って、美味しい熱々のごはんを作って、洗濯掃除、町内のパトロールまでこなして。

ほったらかしにしてたら子供は死んじゃうから、休みは一日もなかった。

父も、苦手な仕事なのに家族のために必死にこらえて働いてた。

ひょんなことでクビになってしまった時は、肉体労働で体に鞭打ってお金を稼ぎ、そんなつらさを酒でべろんべろんに酔っぱらって忘れる日々。

派遣じゃ限界があるから、積極的に行動を起こし、また新たな職にこぎつけたものの、そこで人の失敗を押し付けられたりした。

父は血の滲むような努力で、僕に大きな大きな背中を見せてくれていたのだ。

能天気に悲劇のヒロインぶっている僕の裏で、想像を絶する過酷さの中を父と母は生き抜いてきた。

僕みたいな甘ったれには絶対にできないことだと思う。

二人の支え――という名の犠牲があったからこそ、僕は生きている。

僕の足元は、汗と血と涙でできていた。

両足で大地を踏みしめて歩けるのも、

汚染されていない空気を吸えるのも、

雨が降っても風邪をひかずに済むのも、

夜に身ぐるみはがされないか怯えることなくすやすや眠れるのも、

清潔な衣服を着て過ごせるのも、

毎日丹精込めて作られた手料理をムシャムシャ食べれるのも、

みんなみんな両親のおかげなのだ。

僕は満たされない毎日に嘆き悲しんでいたけど、実はとっても恵まれていたんだ。

 

僕が生まれたとき両親は

『生まれてきてくれてありがとう』って思ってくれたはずだ。

幸せを願われながらすくすくと育てられた。

初めて喋れた日、よちよち歩きできた日、幼稚園の発表会で立派に演技しきった日。

ことあるごとに両親は、僕の成長に泣くほど喜んだ。

僕は、存分に愛を受けて育った。

そういう事実から目を背け、

「僕は誰からも愛されなかった。愛を知らない、世界一不幸な人間だ」

なんて抜かしていた。

卑屈になることは、自分だけじゃなくて親のことも深く傷つける。

それも無意識に。

親に産んだことを後悔させることだけは絶対にしてはいけないと強く思う。

誰でも今すぐ幸せになれる

今この瞬間を生きている、それは本当に尊いことなのだ。

この世界一安全な国・日本で、一日にどれだけの人がなくなっていることか。

病気、不慮の事故、殺人事件――

僕らはいつだって生と死の狭間で生きてる。

いつ心臓の動きが止まってもおかしくはない。

一命をとりとめたとして、四肢の自由が奪われるやも知れず。

そんな中、物理的に何不自由なく暮らせていることは、奇跡と言って差し支えない。

蛇口をひねれば無限に湧き出る水道水、安くて美味しい外食チェーン、豊かな自然に囲まれた公園。

気の置けない友人、自分の身を案じてくれる家族、毎朝挨拶を交わす近所のおじさん。

これ以上何を望むというのか。

『幸せの欠片』はそこら中に転がっているのに、それに気づかずに「ああ、自分はなんて不幸なんだ」と嘆いてる。

悲観思考の目隠しを取ってしまえば、目の前には、今まで見たことのなかった世界が広がるっているだろう。

幸せっていうのは、すぐ近くにあるのになかなか気づけない。

否、本当はとっくに知っているのかもしれない。

けれども、見栄や他責思考に支配されている脳みそはそれを受け入れられない。

心のどこかで「これこそが『幸せの本質』なのでは……」と気づきかけているのに、長年の習慣から拒んでしまう。

不幸体質が根っこから染みついているのだ。

結果、自ら不幸になることを選択することとなる。

精神的な不自由さは、自分自身が作り出している幻想に過ぎない。

人は本来、呼吸して、水飲んで、くたくたになるまで動いて、飯をかっ食らい、布団の上で熟睡するだけで満たされる生き物なのだから。

その中で、愛する人と心を通わせ、喜びや悲しみを分かち合えたなら、もう何も思い残すことはないだろう。

過去の出来事を言い訳に使った

「僕が不幸なのは過去のトラウマのせいだ。それさえなければ僕は人並みの人生が送れたはずだ」って、今頑張れない理由を過去から持ち出す。

「あの時ああしていれば……」と何度思っただろう。

何かうまくいかないと、目の前に立ち並ぶ問題から目を背け、過去に原因を求める。

 

「大学の勉強全然頭に入ってこない。これ出来ないと卒業できないのに。別の学部にすればよかった……」

「他学部も受かってたけど、第一志望の結果が発表されるまでに授業料を振り込まなくちゃいけなくて、親は気にしないでと言ってくれたのに勝手に申し訳なさを感じて今のところにした。あの時の判断が間違ってたんだ!」

「大体、高校選びにしくじらなければこんなことにならなかった! 親や塾の先生に止められたのに無視して自分に合わない高校に入って地獄を見た。友達もできず勉強にもついて行けず、貴重な高校三年間をドブに捨てた」

「対人恐怖症になる前にバイトを始めていれば、今頃ちゃんと大学に行ってバイトもできてたはずだ! どうせ帰宅部でろくに運動も勉強もせず、ネットして暇を持て余してたんだから、バイクの免許でもとっとけばよかった」

「自分の選んだ選択がことごとく裏目に出てる! 何回後悔すればいいんだよ! もう何をしても手遅れだ! やけになってクレカ使い込んでブラックリストに載って、自分を追い込もうかな。そしたら潔く死ねるよね。運よく奨学金も機関委任補償で親に請求が行かないし、もうみんなに迷惑をかけなくて済む。来世ではまともな人間になれるといいな……」

 

どんどんどんどん遡って過去にせいにする。

こういう時は過去の出来事の悪いことだけを都合よく取り出すんだ。

楽しかったことに蓋をして不幸面する。

夢の中でも、妄想でも、幾度となく昔に戻ってやり直したよ。

「後悔していることをやり直せれば、きっと最高の人生になるはずだ!」

僕はアルバイトの面接を何十回もバックレてきた。

家にいるときは全能感に満ちていてウキウキで電話して応募できるのに、面接当日に会場の前に着く頃には別人のように青ざめていて、たちまち人の視線に怯えて逃げ帰ってしまう。

それと全く同じだ。

結局、安全な場所ではいくらでも強くて行動的な自分を妄想できるが、いざ現場に行けば途端に臆病な素の自分に戻ってしまうのだ。

そんな僕が過去に戻ったところで、また昔と同じことを繰り返すのは想像に難くない。

それに思い返せば、後悔している選択の前から、僕は“普通”ではなかった――

特別支援学級に入れられかけた

僕は生まれながらに“異常”だった。

赤ん坊が泣くのは当たり前のことだが、僕のそれは行き過ぎで、“正常”の域を明らかに超えていた。

電車内でも泣き止まないどころか、あやされればあやされるほどより大声で泣き叫ぶという有様。

腹の底から、全身全霊で、泣いて、叫んで、疲れて寝た。

そのうち体が大きくなっても、相も変わらず赤子のように泣き喚いて駄々をこねていた。

 

校舎の外でスケッチする授業中、友達とサボってグラウンドの隅にある小さな池の周りで遊んでいた。

痩せていて跳躍力のある友達が、池の端から端まで軽々跳び越えるのを見て、僕もそれに倣い地面を蹴った。

デブで運動神経のない僕は、重力に負けてあっけなく落ちた――デブは重力に弱い。

着替えに行けばいいだけで、別段騒ぎになることでもないのに、僕はその時不貞腐れた。

そして先生に見つかるまで池の中に立ち尽くしていた。

「みぃが池に落ちました!」

とクラスの女子が呼んできた先生に事情を聴かれても一切答えず、びしょ濡れのままムスッとしていた。

困り果てた先生は親に連絡して、着替えを持ってきてもらい、僕は着替えて母と二人で早退した。

委員会に行くのが嫌でサボり、委員全員で僕を捜索することもあった。

みんなが校舎の隅々まで探し回り、しばらくして僕は見つかった。

下の学年の子が物陰に隠れる僕を見るなり

「ここにいました!」

と先生に報告した。

その時の僕はさながら逃亡中の指名手配犯だった。

 

面談では、僕の後ろは必ず一コマ開いていて、話が長引くことを予感させた。

学校の先生から

「集団行動がまるでできませんねぇ」

と聞かされる親の姿を見てきた。

教育熱心で子煩悩の親に

「ご迷惑をおかけしてすみません……」

と何度言わせてきただろう。

後になって知ったが、僕を特別支援学級に入れることを勧められたらしい。

もしあの時、両親が僕を見限っていたら、特別支援学級に入れさせられていたかもしれない。

そしたら僕は今頃どうなっていたのだろうか――考えたくもない。

少なくとも、何があろうと両親は、僕に対する良心と期待を持ち続けていてくれたということだ。

中学校で「更生」したかに見えたが……

小学校卒業までは、集団行動はもちろん勉強もできない出来損ないだった。

おそらくうちの小学校内で、下から数えて2、3番目だったと思う。

真夜中、僕が寝たと思った両親は、僕の将来を案じ、

「中学卒業したら大工をさせるか」

と話し合っていた。

「頭もダメ、コミュニケーションもダメとなったら、手に職つけさせるしかねえ」という感じだった。

幸運なことに中学入学前、母が某通信教材を取り寄せてくれた。

父は「どうせあいつはやらない」と反対すること必至だったから、内緒でさせてもらった。

これがきっかけで僕は勉強するようになり、中学ではそこそこ勉強ができるようになった。

学年でも上位15%には入っていたと思う。

部活でも――なんとなく入った卓球部だったけど、家でも素振りするくらにはハマっていた。

ちゃんと練習して、区や市大会で入賞したり、二年の時は同学年で唯一先輩に混じって団体戦に出してもらったこともあり、三年の時はエースとして活躍した。

引退試合は、市大会に出場した僕のためだけに部員全員が応援に来たものだ。

(ちなみに、あと一勝で県大会出場というところまで行った)

僕の母校は小中一貫校で、たまに中学に小学校の先生が見に来るのだが、授業中に小学生の頃の担任がやってきて、

「顧問の先生(小学校の先生)に聞いたけど、部活も勉強も頑張っているみたいじゃない。よくやったねえ~」

と褒められた。

僕は、親も、同級生も、そして教師をも見返したのだ!

中学でも問題行動を起こしたことはあったが、それ以前よりは大幅に減り、小学校まで劣等生だった僕は瞬く間に同学年の人々をごぼう抜きした。

高校受験の結果、偏差値60の高校に受かり、両親は僕が完全に「まとも」になったと思い、胸をなでおろしただろう。

僕は「更生」し、怒涛の逆転劇を披露したかに見えた。

しかし、疫病神は僕をつかんで離さなかった……。

高3で不登校

僕は高校に入学してからというもの、打ち込めるものが見つからず、毎日無気力で過ごしていた。

勉強について行けず、部活もせず、友達とも遊ばず、家でネットして時間を潰し、ひきこもりがちになった。

そして高3の夏前、ついに僕は不登校になった。

「授業を受けなくても自習で有名大学に合格するから大丈夫」と言い、有料自習室に立て籠もった。

だが、最大の原因は別にあった。

授業で当てられて答えられないことが恥ずかしくて、学校に行きたくなかったのだ。

僕の友達で、僕以上に勉強の出来ない子がいた。

小っちゃくて色白で少しぽっちゃり体型の弱々しい見た目で、クラスのみんなに上から目線で見られていた。

コミュニケーション能力は比較的高く、先生ともよく会話し、行動的な子だった。

彼はクラスメイトから強い口調で話しかけられると、敬語を使ったりお辞儀をしたりして委縮していたのだが、その態度がより舐められる要因となった。

そんな彼は、授業中、先生に指されても答えられないことが多かった。

すると決まって誰かしらが

「お前そんなこともわかんねえのかよ。頭悪すぎだろ」

と責め立てる。

馬鹿にして笑うこともあれば、怒ることもあった。

受験のストレスでもあったのか、それを発散するかのごとく、一段と強い態度で八つ当たりする日があった。

「ちゃんと勉強しろよ! お前が間違えるせいで授業の進行が止まって迷惑なんだけど!」

授業中に大声でキレ出したそいつの方がよっぽど迷惑なんだが、それは置いといて、これにはさすがに周囲の人間も引いて、「気持ちはわかるけど落ち着けよ……」となだめた。

すると彼は、顔を真っ赤にして、涙ぐみ、うつむいた。

すぐそばで攻撃されている友達を横目に、僕は何もできず固まった。

何しろ、僕自身も当てられて答えられないことが多かったから、震え上がっていたのだ。

幸いなことに、僕は寡黙で、仲のいい人も少なく、喋った経験のある人がほとんどいなかった。

そのため、どんな反応をされるかわからなかったのか、そういった悪口のターゲットにはならなかった。

しかし、裏で言われているかもしれないし、いつ言われるかわからなくて不安だった。

このような背景から、自然と教室から足が遠のいた。

あと、実験や調理実習で何もできず突っ立っていることが多く、その時間がたまらなく苦痛だったのも理由の一つだ。

でもそんなこと誰にも言えるわけがないから、「勉強に集中したい」という名目で不登校になった。

学校に行かない僕に母は、

『なんで普通にしないの? お願いだからみんなと同じようにちゃんとやってよ!』

と悲痛の声を上げた。

僕は「有名大学に受かればいいんだろ受かれば」と聞く耳を持たなかった。

 

自習室で勉強に集中できたかと言われれば、全くできなかった。

スマホをいじり、コンビニで買ったパンやら弁当やらを食べ、寝るの繰り返しだった。

「飲食可」と書いてあったからフライドチキンだか唐揚げ弁当を食べていたら、管理人に

「さすがにそれはちょっと……。匂いで周りが迷惑しますので……」

と追い出され、外の階段で食べたことがあった。

ちなみにその管理人に自習室の契約の際、学生証の写真(高校入学時のもの)と目前にいる僕を見比べて、

「全然違いますね」

と笑われた。

帰宅部で運動もろくにせず、それでいて人一倍食欲は強いメタボ高校生の僕を見て、言わずにはいられなかったのだろう。

なんせ僕の当時の体重は70キロを優に超えていたんだから。

ほっぺはパンパンに膨れ上がり、腹が飛び出した高校生だった。

図星だったからか、憤りを感ずることはなく、僕も笑った。

 

話を戻すと、僕は対人恐怖をこじらせ、それを回避するために不登校堕ちした。

卒業単位数を意識し、必修科目だけは意地でも出て、計画的に不登校を実行した。

2、3時間目の開始20分前に学校に着き、あまりの緊張に腹を下しトイレに籠る。

授業開始直前に何事もなかったように席に着く。

遅刻早退は当たり前。

担任の先生に、

「履修したのに出ないのは先生に失礼だから、一言謝りに行きなさい」

と耳が取れるほど言われたが、

「わかりました……」

とだけ言い残し、毎回職員室に寄らずそそくさと直帰した。

何度呼び出されても一向に謝りに行かない僕に呆れたのだろう、後半は何も言われなくなった。

僕の知らないところでその担任が代わりに頭を下げてくれたのだと思うから、今では心苦しく感じている。

当時の僕は自分の弱さをさらけ出すことなんてできなかった、意固地で不愛想で嫌な奴だった。

学校に行けない理由、何に苦しんでいるのか、これからどうしたいのか、ちゃんと打ち明けられていたら……。

すごく優しい先生だったから、きっと話を聞いて、一緒に悩んでくれただろうな。

いつかまた会う機会があれば、その時は本音で語り合いたいと思う。

大人になったからこそ通じ合える部分があるはずだ。

その後、単位数ギリギリで、先生のお情けもあり何とか卒業できたはいいものの、受験結果は全落ちで、浪人時代に突入する。

高校時代は嫌でも学校に行ってコミュニケーションを取る機会があったが、予備校に強制性はないから逃げ放題だった。

そして僕は、引きこもりと対人恐怖を加速度的に悪化させていった――

幸せになる方法

僕は「高校選びに失敗したことや、社会不安障害になったせいで人生がめちゃくちゃになった。だからそれさえなければ僕はきっと幸せになれる」と思い、それがなかった過去をひたすら夢見た。

人生の分岐点で間違った方に進んでしまったことがすべての原因だと言わんばかりに。

でもそれは間違いだった。

それよりずっと前から僕は、社会に適応できず、人並みの人生を送れない運命にあった。

どんな選択をしても、僕は今頃、また同じように引きこもりのニートになっていたと思う。

なまじそれなりの高校(といっても自称進学校だが)に入ってしまったがゆえに、自分を過大評価していたが、本質的には僕は中卒か、入学試験なしの底辺校に行くべき人間だったのだ。

家の近くにあった誰でも入れる学校は、登校する人みんな目が虚ろで、どこか抜け落ちているようで、僕はそれを見下していた。

でも、彼らは勉強こそできないものの、それぞれの青春を、生活を、人生を謳歌していた。

友達や家族や恋人がいて、その人たちと「愛」を育み、大切にしていた。

そして僕は、愛に気付かない、愛を与えない、彼らに遠く及ばない、社会に馴染めない、落伍者すなわち社会不適合者だった。

 

僕は運よく能力以上の結果を出せたがゆえに、己の価値を見誤った。

その結果、自分に幻想を抱き、今の状態とのギャップに苦しんだ。

自分の本当の姿を受け入れたとき、人はやっと“大人”になる第一歩を踏み出せる。

僕がこれからすべきは、『過去』を肯定し、『今』を生きること。

問題が起きたとき、親や他人や社会に責任転嫁せず、自分の人生に責任を持つこと。

夢見がちな心を抑え、できる目標だけを立て、それを着実に達成していくこと。

自分を実力以上に評価せず、かと言って卑下することもせず、ありのままで生きること。

そして何より、この世界にあふれる無数の『愛』を感じ、『感謝』の気持ちを常に持ち続けること。

それさえできれば、僕は幸せになれる。

僕の両親は世界一素晴らしい

親は神でも仏でもなく、ただの人間だ。

死ぬ思いで産んだ子供は、障害を疑われるレベルの問題行動を起こし、様々な人に迷惑をかけた。

そんな息子がようやく改心して「まとも」になったと思ったら、またもやレールから外れるような行いをする。

そりゃ誰だって嫌になるよ。

考えてみれば当たり前で、親だって一人の人間なのだ。

僕ら子供よりちょっと早く生まれて、ちょっと長く生きてるだけ。

親不孝の権化のような子供に対し、無条件に愛を注げるほどの器量は持ち合わせていない。

そんなことができたら文字通り、神様だ。

 

幼い頃は、何でも知っていて、とてつもなく大きな存在に思えた。

泣いて助けを乞えばいつだって駆けつけてくれた。

聖母よろしく包み込むような安心感を与えてくれた。

汗の滴る男らしい背中を見せてくれた。

でも今は、時折とても頼りない背中に見えることがある。

白髪が増え、体力の衰えが目に見えて現れ始めた。

年齢にしてはとても若々しく見えるが、それでもやはり、体のさまざまなところにガタが来始めている。

今度は僕が支える番だ。

人一倍迷惑をかけた。

色んな人に謝らせた。

逆恨みしたりもした。

だからこそ、僕の両親には誰よりも幸せになってもらいたい。

就職して初任給が入るまでは抱っこされるように生きていくことになるけど、少しでも重りにならぬよう、成長を見せていきたい。

また昔みたいに。

もう二度と、頭を抱えさせない。

 

僕の両親は、誰が何と言おうと世界一素晴らしい親だ。

『この家に生まれてよかった』

今はそう心から思える。

これから一生かけて恩返ししていく。

お金ではなく、愛で。

いつか時が来たら、満面の笑みが咲き乱れる中で、穏やかに息を引き取ってもらいたいから。

そのためにも、常日頃感謝を忘れず、時に伝え、つらい時でも笑顔で明るく過ごしていきたい。 

僕を生み、育て、そして愛してくれた両親に、心からの感謝を。

追記:Amazon欲しいものリスト開設

www.amazon.jp

 

先日、Amazon欲しいものリストを開設したところ、さっそくプレゼントを送ってくださった方がいました!

 

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袋を開けてみると……

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 コーヒーカップが入っていました!

 

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また後日、大きくて重たい包みが届いたので開封してみると

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総重量20キロ超えのミネラルウォーターの群れが……!

 

僕のような卑屈で意気地のない人間にお恵みくださるとは、なんて徳の高い方なのでしょう。

誰かに与える人は、巡り巡って自分にも幸運が降りかかってくる。

その反対に、もらってばかりの人間はいつまでも満たされないという。

僕も、無能なりにもがいて、人に勇気を与えられるような生き様を見せていけたらいいな。

これからも頑張りますので、応援よろしくお願いします!